2010.08.22

小さな花

山中の奥に咲いている小さな花は、
誰にも見つからないような場所に根を下ろしていても、
美しく咲き誇っています。

人に見られているかどうかにかかわらず、
他の花と自分を比べることもなく、
堂々と咲いています。

私たちもなにかをするときに、
たとえ誰にも見られていないようなことでも、
心を尽くして精一杯取り組むことが大切です。

人に注目されていてもいなくても、
他人と自分を比べることもなく、
堂々と自分を咲かせましょう。

本当に気にすべきなのは、
他人の目ではなく、
神様の目、自己自身の目です。
私たちはこの目からは決して隠れることができません。

神様は人間の行為の大小ではなく、
内面の純粋さをいつも見ています。
だから、
小さくてもよいので精一杯、
自分の花を咲かせましょう。
それが私たちができるすべてのことです。

「アートマンへの道」 はじまり~

Spiritual Essay "Maya" は2年半ほど休筆しておりましたが、
タイトルを The Way to Artman 「アートマンへの道」に変更して、
デザインも一新し、再スタートいたします。
私たちが真の自己自身に到達するために役立つと思われることについて、
高い意識領域からのメッセージとしてここに綴らせていただきます。
それ故、厳しい言葉もありますが、率直に記させていただきます。
私たち凡夫のエゴにおもねることなく表現することが、
最終的にはもっとも貢献できると信じるためです。
内容について違和感を感じられた方は速やかにご退去ください。
いただきましたコメントはすべてありがたく拝見しております。
返答できない場合が多々ありますことをご了承ください。
(不適切と思われるコメントは筆者の判断で削除させていただきます)
どうぞよろしくお願いいたします。

2008.01.06

空っぽにすること

コップに水がなみなみはいっていたら、
それ以上水を注ぐことはできません。

満腹になったら
どんなに美味しいものももう食べられません。

新しいものを得るためには、
なにかを捨てる必要があります。

新しいことをはじめようと思ったら、
なにかをやめる必要があるのです。

身体や時間、心は有限です。
なにも捨てずに、
なにもやめずに、
すべてを得ようとしたり、
すべてをやろうとしても無理なのです。
まず、空っぽにすることが大切です。

2007.12.07

困難は心を照らす

建物に手抜き工事や耐震偽装があっても、
外観が飾られていれば、
平時には見分けがつきません。

しかし大きな地震がくると
構造の弱い建物は倒壊し、
強い建物は生き残ります。

地震によって、
内部の強度が選別されるのです。

おなじように、
心に欠点が多くても、
表面を取り繕っていれば、
平和で順調なときには見分けがつきません。

しかし
大きな困難にぶつかると
心に欠点が多い人は挫折し
心が磨かれている人は平静さを保ちます。

困難によって
心の内面が峻別されるのです。

災難やトラブルが生じたとき、
思い通りに事が運ばないとき、
追いつめられたときに、
私たちはもっとも真価が問われます。

困難のなかで輝いている人は、
真実の輝きをもつ人です。
困難のなかで当たり散らす人は
もともとあった欠点が露わになったのです。
困難は人の心を照らしだし、
本当の姿を明らかにしてくれます。

だから困難は心の成長に欠かせません。
困難のなかが
もっとも自分の心を知りやすく、
心をきれいに磨くことができるのです。

2007.12.02

積み木のように

積み木を一列に積み重ねていけば高い塔ができます。
しかしひょろ長い塔は、
少し床が振動したり、
風に吹かれれば、
すぐにバランスを失って倒壊します。

積み木を高く積もうと思うなら
下になる基礎部分を幅広い面積を使って形作り、
適切に配置しなければなりません。

ピラミッドのように
幅広く頑丈な基礎部分があれば、
風雨や地震をものともしない
ゆるぎない高さを達成できるのです。

霊的な成長は、
高い積み木を積むことに似ています。
基礎になることを
幅広い領域に渡って経験をしながら学んで、
ひとつひとつ丁寧に積み上げていくことが必要です。

そうでなければ
高く積めたかにみえても、
逆風が吹けばグラグラと揺らぎ、
もろくも倒壊してしまうでしょう。

高く積んで揺らいだときには、
問題点がハッキリしたのですからそれも前進です。
揺らいでしまった要因を調べましょう。
基礎がしっかりしていなかったのです。
下部の足りない積み木を補いましょう。
それが今取り組むべき課題です。

積み木がひとつ整い、
積み木がひとつ増えるたびに、
私たちは安定性を増し、
より高く積めるようになるのです。

2007.11.30

落花生

落花生の殻をバリリと割ると
なかからおいしい豆がでてきます

自分のエゴがバリリと割られると
なかからきれいな心がでてきます

バリリと砕かれることは
そのときは痛み苦しみますが
幸せなことなのです

2007.11.27

知ること re-mind

すでに記憶している知識に出会うと、
ああそれは知っていると思います。

心では知らないけれども、
魂が知っている知識に出会うと
感動します。

心ではなぜ感動するのか分からなくても、
心の奥にある魂が共振しているからです。
この場合は、
頭では新しく知るのですが、
魂の記憶と外の知識が共鳴して、
想い出された(re-mind)という
懐かしいような独特の感覚があるのです。

心も魂も知らない知識に出会うと、
まったく未知の感覚が湧きます。
好奇心が湧く場合もあるし、
理解も関心も持てない場合もあるでしょう。

知識に出会ったとき、
自分のなかの感覚を味わってみましょう。
すると、
心や魂のいろいろな動きに気づきます。

2007.11.03

もぐらたたき

自分に降りかかってくる問題は、
こころをもっと大きくしなさい、
意識をもっと拡大しなさい、
と語りかけています。

いままでの自分の小さな世界を突破すること、
脱皮してこころを大きくすること、
それこそが最も大切なことです。

対処療法で問題を解決したとしても、
こころが成長していなければ、
意識が拡大していなければ、
もぐらたたきのモグラのように、
また違う穴から問題が顔をのぞかせてくるかもしれません。

モグラをにくんではなりません。
なぜなら、
モグラは私たちに気づきをもたらすための
神の使いだからです。

より深く広い意識で問題を見ることができれば、
それだけで問題がもはや問題でなくなることもあります。
容易に解決の糸口を見いだせるかもしれません。
あるいは、
みているうちに問題が自然に解けていくかもしれません。
そうなれば、
もぐらたたきゲームはクリアです。

2007.11.02

毒と薬

真面目一辺倒だったり
純粋無垢であると
この世は生きにくいかもしれません。

でも、だからこの世は素晴らしいのです。
嘘や競争が蔓延するこの世こそ、
こころを磨くには格好の場所ともいえるのです。

この世で強く生きるためには、
毒をもつことも必要です。

ただし、
毒について深く知り、
毒を適切に使うだけの力量を身につけなければ、
自家中毒になって身を滅ぼしてしまいます。

まっすぐで賢い心の人が毒をもつとき、
毒は良薬になります。

本来は毒も薬もありません。
誰がどのように使うかによって、
あらゆるものは毒にも薬にもなるのです。

毒を携える人には強さと奥深さがあります。
毒を避け続けるだけでは、
毒にも薬にもならない弱く小さな人になってしまいます。

2007.10.15

自己を発動せよ

目を覚まして自己を発動させなさい。
自己の深奥から湧き出る力に触れなさい。
その力を信じなさい。
いついかなるときも
自己の中心に触れ、
自己自身を信頼しなさい。

さまざまなものを学び、
すぐれた人たちから
アドバイスを受けとることはとても大切です。
けれども、
最後の決定をくだすのはいつも自分自身です。
人生のすべての責任は
自分自身にあります。

他人への批判でいっぱいになったり、
エゴ(表層の自己)に乗っ取られているときは、
威勢よく強がっていても、
心のなかは不安でいっぱいです。

自己を発動し
自己を信頼するとき、
私たちは自己であることに誇りを感じ、
心に強さと平安があります。
周りの人が否定しても、
自分が自己自身を信頼していれば、
心には強さと平安があります。

自己を発動せず、
自己に触れず、
自己を信頼できなければ、
何千人に褒め称えられても、
何億円を手に入れても、
博士号をとるほど勉強しても、
心は迷いや不安から逃れられません。

自己を発動し、
自己自身に尊厳を感じ、
その力につながることが大切です。

2007.09.24

嘘つきと正直者

無欲な正直者が得をして、
強欲な嘘つきがひどい目に遭う
世界中の昔話にはそういうモチーフがよくありますが
果たしてこれは事実でしょうか?

現実の社会では、
無欲な正直者は目立たない日陰者になり、
強欲な嘘つきは華やかに活躍しているようにも見えます。

しかし
強欲で嘘つきな人をよく観察すれば、
実際には失っているものが多いものです。

巧妙に隠しているようでも、
欲深さやずるさは、
周りの人たちに伝わっているものです。
よい人は自然とその人から離れていくことでしょう。

気づいてみると周りは同じように欲の強い人ばかりになっています。
そのような人たちの集まりは、
お金や権力があって華やかで立派に見えますが、
内部ではお互いの疑心暗鬼がうごめいていて心が安まることはありません。

無欲で正直な人は、
現実の社会では地味で損をしているように見えます。

しかし無欲で正直な人をよく観察すれば、
実際には得ているものが多いものです。

みずからアピールしなくても
無欲で正直な心は
周りの人たちに伝わっているものです。
欲深い人はその人からは得るものがないので離れていくことでしょう。

気づいてみると周りは同じように無欲で正直な人ばかりになっています。
そのような人たちの集まりは、
目立たず地味で質素に見えるかもしれませんが、
お互いが正直に接するので心の底から安らいでいます。

この世の人間同士でさえ私たちは内面を隠し通すことはできません。
そして似ているもの同士が引き合う傾向があります。
ましてやあの世にいけばもっと赤裸々に内面が明らかになり、
昔話のような結果がはっきりとあらわれるのかもしれません。

2007.09.23

トラブル

なにかトラブルに巻き込まれて対立が起きたとき、
相手を打ち負かすことだけに心を奪われてはいけません。
憎しみや怒り、
復讐心によって損するのは、
相手ではなく自分自身です。
そこは苦しいのですが、
踏ん張りどころなのです。
そうでなければ、
自ら地獄行きのチケットを手に入れることになります。

自分の側にも落ち度がなかったか、
欲目がなかったか、
汚い心がなかったか、
よく内省することが必要です。
法律的・社会的には自分に正当性があったとしても、
深いこころの動きまでつぶさに見通したときには、
こちらに非があることもとても多いのです。
さらには、
過去に似たような誤りを自分が誰かにしていないか、
よくよく内省することも必要です。

神様ならば、
すべてを許します。
私たちもそうできれば最高です。

しかし、
許そうとしてもどうにもならなかったり、
形だけ許しても心が治まらない場合には、
「部分的に許す」
ようにすればよいでしょう。

具体的には、
相手の非を責めるにしても必ず逃げ道を作っておく、
こちらの主張をしながらも譲歩して落としどころもわきまえる、
憎しみに心を占領されず相手への配慮も残しておく、
相手の心が成長することを心から願う、
などを心がけると良いのです。

相手が一方的に不当な攻撃をしてきたら、
それを受け取らなければよいのです。
そうすれば、
攻撃のエネルギーは、
攻撃した人自身がすべて引き受けることになります。
それはその人の課題なのです。

100%以上の仕返しをしてしまえば、
その場は勝利したとしても、
そのトラブルは形を変えて
繰り返し必ず再びやってくるでしょう。

100%未満の主張をしたならば、
許した分だけ心は大きくなり、
カルマも減少し、成長するのです。

トラブルは、
自分で蒔いた種を刈り取ることによって、
心を大きくするチャンスなのです。

2007.09.07

一段論法

痛いものは痛い。
怖いものは怖い。
嫌なものは嫌だ。

これが肉体的存在である、
私たちのまぎれもない真実です。

真実に即してシンプルであれば、
やがてそれは過ぎ去り、
変化していきます。

痛いのに痛くないフリをする。
恐いのに恐がっている自分を認めない。
嫌いなことを好きになろうとする。

このように自分の感覚や感情を
都合よく操作しようという計らいが過剰になると、
単純なことに無数の評価や注釈が生み出されて、
複雑にこんがらかって大きくなっていきます。
愚にもつかない理屈を積み重ねれば、
やがてそれは神経症や心身の症状になるでしょう。

消そうとしてかえって
痛み、恐れ、嫌悪が増幅し、
こころにこびりついてしまうのです。

余計な理屈をこねることをやめて、
シンプルな一段論法で、
素直にしっかり体験しつくすことが大切です。

2007.09.06

真の信仰

誰かが私になにかをしてほしいと要求してきたとき、
それが自分の仕事でないかぎり、
基本的に私はそれに応えてもいいし、
受けつけなくてもいいのです。
他人の要求に応える義務はなく、
自由な裁量に任されています。

すぐれた人物ならば、
その要求がどれだけ切実か、
その要求の動機が純粋なものか、
その要求をする前にどれだけ努力しているのか、
などを的確に見極めて、
要求に応えるかどうか決めるかもしれません。

同じように私たちが
「神様お願いです、
これこれになりますように」
と祈ったとしても、
神様はそれをかなえてもいいし、
かなえなくてもいいのです。

神様が要求をかなえるかどうかの判断は、
常に愛に基づいた完全なジャッジです。

そのことを信じることが、
真の信仰というものです。

真の信仰というのは、
特定の宗教に所属することではなく、
神の御心と配慮の完全性を疑わず、
つねにそれを感謝できる心のことです。

たとえ自分の要求が応えられなかったとしても、
神の判断に間違いはないので、
もっともよい計らいだったと感謝できるのです。

そういう真の信仰をもてればいつでも幸せです。
心の一部は、
自分の要求がかなえられなくてガッカリしても、
より深い心の部分では結果に完全に納得し、
神様に感謝できるからです。

2007.09.03

誰が私の司令塔か?

私たちは職場や学校など
さまざまなグループに所属しながら生きています。
その所属している集団のトップにいる人が、
そのつど適確な配慮や指示、判断ができなかったり、
人格的な問題を抱えていたりすると、
そのグループ全体の雰囲気は悪くなり、
所属している人たちは居心地がわるく、
グループはばらばらになっていきます。
良いメンバーがそろっていても、
トップに能力がないと、
その集団が良い方向には進んでいくのは困難です。

ところで、
ひとりの人間の心のなかにも、
いろいろな人格をもった存在が同居しています。
私の心を仕切っているのは、
いったい誰でしょうか?

私のなかの怠け者でしょうか?
私のなかの快楽主義者でしょうか?
私のなかの権威主義者でしょうか?
私のなかの強欲な金の亡者でしょうか?
私のなかの傷ついた内なる子どもでしょうか?
私のなかの臆病者でしょうか?
私のなかの狂気でしょうか?
私のなかの不幸を愛する者でしょうか?
私のなかの冷酷なエゴイストでしょうか?
私のなかの・・・

あるいは、
私のなかの勤勉な者でしょうか?
私のなかの現実主義者でしょうか?
私のなかの平和主義者でしょうか?
私のなかの博愛主義者でしょうか?
私のなかの理想主義者でしょうか?
私のなかの職人でしょうか?
私のなかの芸術家でしょうか?
私のなかの真実の探求者でしょうか?
私のなかの魂でしょうか?
私のなかの神様・仏様でしょうか?
私のなかの・・・

私のなかにはいろいろな存在がいます。
どの存在も、確かに大切な私の一部です。
むやみに切り捨ててはいけません。
すべての存在が成長していく必要があるのです。

ただし、
私という共同体の司令塔であるトップの座には、
もっとも高い意識の存在が着任すべきです。
もっとも高い意識の存在が私の心を統制するとき、
私という共同体は、
巧みに舵を切り、
もっとも良い方向に進むことができるのです。

自己中心的な低い意識の存在を
自分のトップに立たせてはいけません。
低い意識の存在は、
常に配下でなければなりません。
そうでなければ、
私という共同体は混乱し、
全体が沈下していくでしょう。

私という共同体にどんな存在がいるのかを知り、
私を私のなかの一番高い意識に委ね、
統治してもらうことが大切です。

2007.07.27

正しく述べ伝える

私たちは
他人の悪いことについて、
広く述べ伝えることが多いのです。
ひどい場合には、
事実をねじ曲げて
悪い噂を流す人も少なくありません。

問題点を明らかにすることは大切なことですが、
憎悪や嫉妬によって他人の悪いことについて語るとき、
吐いた言葉によって自分自身を汚してしまいます。

私たちは、
他人の素晴らしいことについて、
どれだけ伝えているでしょうか。
素晴らしい人物について、
どれだけ述べ伝えているでしょうか。

人の素晴らしさに気づき、
感銘や感謝、尊敬の念を抱いたとき、
その感動を他人と分かち合いましょう。

ただし、
注意すべきことがあります。
素晴らしいことを伝えるためには
いくつかの条件があるのです。

伝える人がその素晴らしさを深く理解していること、
相手に合わせて分かりやすく伝えられること、
ききたくない人には話さないこと、
押しつけがましいところが一切ないこと、
伝える人が普段から信用されていることです。

これらの条件が満たされれば、
素晴らしいことをたくさん人々に伝えることができます。

本当に素晴らしいことを正しく伝えることができれば、
その素晴らしさは自分のところにも巡り巡ってきて、
喜びに満たされるでしょう。

2007.07.25

悪魔の刻印

悪魔に心を奪われ、
悪魔の心のままに行動をしていると、
やがて大変な不幸や苦しみを味わうでしょう。

この宇宙においては、
心で思った内容、
口で語った言葉、
身体で行った行為、
すべてが漏れることなく種となり、
いつか芽を出し実をつけて、
それを自分で刈り取ることになります。
悪魔の心、言葉、行為からは、
痛み、苦しみ、不幸の実がなるのです。

しかし、
苦しい体験は宝物でもあります。
徹底的に苦しい体験をしてこそ、
もう二度と、あんな目には遭いたくない、
暗闇ではなく、
光に向かって、
真実に生きなければ幸せはない、
心の底からそう思えるようになるからです。

中途半端な幸運や不幸だと、
なかなか私たちは目が覚めないのです。

悪魔の体験もまた、
神の光に進む原動力になるのです。
悪魔もまた、
神から生まれた存在です。

2007.07.24

悪魔のささやき

この世に悪魔はいるでしょうか?

います。
それも、数え切れないほど、
たくさんいます。
それは私たちの心のなかをみれば、
簡単に見つけることができます。

誰かを憎んだり、
怒ったり、
嫉妬したり。

自分を卑下したり、
落ち込みすぎたり、
傷つけたり。

やるべきことをやらない怠け者になったり、
愚痴や言い訳、あら探しに終始したり、
観念の世界に逃避したり。

同じ失敗を繰り返したり、
真実から目を背けたり、
金銭欲・名誉欲・物欲・情欲・食欲などにおぼれたり。

このような悪しき心は、
私たちのなかに住む悪魔の心です。

悪魔は、
私たちの心の弱さにつけ込んできて、
それが悪魔の仕業であることを覆い隠し、
正当化します。
悪魔につけ込まれると、
悪魔の思惑どおりに、
私たちはどんどん不幸になります。

私たちは、
悪魔の狡猾な策略を見抜き、
悪魔の誘惑に負けず、
神様の心にならなければなりません。
一秒でも、
神様の心でいる時間を長くしましょう。

神様の心で生活していれば、
外側がたとえ嵐で荒れ狂っていても、
いつも心の内側は穏やかで幸せでいられます。

2007.07.01

迷い込んだ虫

部屋の中に虫が飛びこんできたとき、
逃がしてあげようとして窓をあけても、
なかなか出られないことがあります。

脱出できなければ、
虫は部屋のなかで飛び回り続け
やがて力尽きて死んでしまいます。

虫は、
自分のおかれた状況が理解できないので、
死んでしまったのです。

私たちは、
虫をコントロールすることができないので、
どんなに窓から脱出することを願っていても、
強制的に出すことはできません。

私たちも、
苦しみのなかにいるとき、
なぜそうなったのか、
どうすれば脱出できるのかが理解できず、
ただ同じところをぐるぐる飛び回って、
やがて力尽きてしまうかもしれません。

いたずらに動き回るのではなく、
自分になにが起きているのか、
状況をよく理解する眼を開くことが必要です。
状況が適確に理解できたならば、
自分で窓から脱出することができます。

状況がきわめて複雑で、
人智をこえた複雑な場合も少なくありません。
そんな場合でも、
正しい道を進みながら、
忍耐強く出口を探し続けていると、
やがて、
窓をあけて待ってくれていた神様に出会うでしょう。
希望を失ってはいけません。

2007.06.26

恩寵を受け取るために

私たちが
霊的に成長するためには、
霊的によいものを受け取り、
心と身体と魂の奥深くにまで
それを浸透させることが必要です。
霊的によりよいものを受け取るためには、

受け取れる心
受け取れる理解力
受け取れるスペース
受け取れる人格の器

が必要です。
これらを準備することが
私たちの努力すべきことなのです。

準備が整っていなければ、
素晴らしい人に出会っても、
素晴らしい場所に行っても、
素晴らしい教えをきいても、
素晴らしいエネルギーに包まれても、
恩寵を受け取ることはできません。
ただ物理的に出会った、
というだけではなにも意味はありません。

無知と傲慢さが打ち砕かれ、
恩寵を受け取れるだけの賢さと、
開かれた心が整えば、
次から次へと霊的なギフトはやってきます。

受け取る準備さえ十分に整えば、
息を吸い込むのと同じように、
いついかなるところでも、
恩寵を受け取ることができるでしょう。
恩寵は溢れるように、
あまねく存在して、
受け取られるのを待っています。

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